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バンコクの旧市街地Ⅱ [70歳の出会い]

現在私たちが見ているチャオプラヤー川になったのは、1542年頃からの人工的な開削工事による
掘削用の機械がなく、大変な手作業だったろう、国王の権力の偉大さを感じる


チャオプライヤー川流域の都市と住宅/タイ・水辺都市のフィールド調査1993-2003(著/法政大学院)」から、チャオプラヤー川の参考図面を3枚抜粋、旧市街地について疑問形式で再度考えた。
ラーマ1.jpg
1782年ラーマ一世になり、市街地を東側ブラナコンに遷都をした時の配置図を見ると、各区画は運河によって囲まれている。つまり、すべて船による交通網だった。
ここで4つの疑問
1)運河の多い、湿地地帯の「ブラナコン地区」に遷都したか?
アユタヤを滅亡させたビルマからの襲撃に防衛しやすい土地がら、つまり西側のチャオプライヤー川、東は低湿地帯が限りなく続いている場所
2)いつ頃、何故、蛇行するチャオプライヤー川が現在の川に変わった?
1542年にさかのぼる。当時は世界の貿易港として栄えていた、アユタヤまでの航路を短縮し、対外貿易有利にすすめるため。1570年代に蛇行する川を掘削した。そして、「ブラナコン地区」の道路・水路整備は、1857年トロン通りの道路開発から始まり、1900年代にと、急速に運河から道路へと市場交通網として、都市は変化していった。掘削前のチャオプライヤー川、下の図を見て分かるように、バンコク・ヤイ水路とバンコク・ノーイ水路がもともとのチャオプライヤー川の本流だった。
3)ビルマの襲撃のための城壁は築いたのだろうか?
現地で一部の城壁を見付けた(下の写真参照)ので、築いたと思われる。
4)プラナコン地区からサンペン地区の方向に展開?
遷都前にブラナコン地区に中国人街があり、転居する場所としてサンペン地区を提供、川沿いのバーンラック地区、西洋との交流の拠点として多くの商館や領事館が並んでいた。
チャオプライヤー川原型.jpg
人工的に短絡水路が開削、また逆にそこから水路を建設されたことが、この図から分かる。
1870年バンコク.jpg
「ラタナコシン」、バンコクが誕生した1782年ごろから形成された街。北─西─南はチャオプラヤー川、東はローブクルン堀で区切られたエリア。別名「ラタナコシン島」とも呼ばれます。面積およそ4.1平方キロメートルの中心には、旧王宮と王宮寺院のワット・プラケオのほか、タイ古式マッサージの総本山として知られるワット・ポー、国立博物館など有名な観光スポットが点在しています。はじめてのバンコク、旧市街地で見た【運河と生活の点景・風景を紹介します。トンプリー地区よりブラナコン地区の方が多く残されているようだ。
運河の水辺都市バンコク.jpg
プラタナコン地区
運河沿い1.jpg
プラタナコン地区
城壁の一部バンコク.jpg
プラタナコン地区の外周側に城壁の一部、上の写真の側にある
運河沿い2.jpg
運河沿い.jpg
水の上の生活0423.jpg
IMG_34110423.jpeg
暑くて、一休み、スイカを食べた場所です

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