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シドニーオペラハウス 言葉のいらない建築 [60歳からのひとり旅]

シドニー オペラハウスはオーストラリアの国のシンボル

一枚のドローイングから生まれる建築
水面に浮く蓮をイメージした形から生まれたオペラハウス、私には折鶴 和紙 白鳥 翼を広げた白鳥 二羽に見えたり 、見る方向で翼、シェルの数は変わる竜安寺の石庭をも創造させる(60歳からのひとり旅Ⅰ)。
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37年経過したオペラハウス、岩盤の(ようにみえる低層部)上に立つオペラハウスは今も美しい


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ヨーン・ウツソン(Jorn Utzon (Jørn Utzon), 1918年4月9日 - 2008年11月29日)
は、デンマーク・コペンハーゲン出身の建築家について(抜粋ja.wikipedia.org/wiki/シドニー・オペラハウス) 1957年、彼はオーストラリア・シドニーに建設予定のオペラ・ハウスの建築設計競技に応募(39歳)、提出した設計案は図面ではなくアイデアを書き留めたドローイング程度に過ぎないものだったため、応募基準に合わないと一旦落選していた。


しかし、審査委員の一人にエーロ・サーリネンがいました。サーリネンはアメリカから遅れてきて、その時はもう他の審査員たちの協議で当選案は決まっていたのですが、落選案の中からサーリネンはウツソンの案を拾い上げて、強引に当選させてしまったという逸話が残っています。



建設費が当初の予算を大幅に上回っていることについて、公共事業相のデイヴィス・ヒューズはウツソンにデザインやスケジュール、費用についての考えを問い質し、彼がウツソンに対する支払いを止めたことをきっかけに、1966年2月にウツソンは設計者の地位を辞任した。(工事は難航し、当初5年とされた工期は14年に。総工費は予定の7000万ドルから10億ドルに膨れあがった。)


1973年女王エリザベス2世によって開館し、以後世界的に著名な建築家


2007年、シドニー・オペラハウスは、ユネスコの世界遺産に登録された。


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【60歳からのひとり旅】を振り返る [60歳からのひとり旅]

今年,73歳になって【60歳からのひとり旅】を振り返る
誕生日、年に一度のプレゼント、海外で迎えるひとり旅


2010年2月60歳になり、矢の如く過ぎていく日々を思い、『時の大切さ』を感じた。これから先、何か心にのこるプレゼント、唯一の趣味の整理、贅沢とは思いながらも【60歳からのひとり旅】を計画した。最初のひとり旅は61歳になったとき。初回の海外での誕生日は、友人の娘さんが住んでいるオーストラリアからはじめた。それからすでに13年が過ぎた。

この13年間、本当に色んなことがあった。設計監理の契約を解約、ハウスメーカーの介入など様々な不幸なことが多々あった。そして、当然妻の理解・許し・諦めがあったから出来たひとり旅だ。目的の誕生日祝いを実行出来たのは、2011年、2014年、2015年の3度(1週間違いの2016年を入れるなら4回になる)だけだった。また、2013年は実施設計の追込みの仕事の関係で海外旅行には、出かけられなかった。そして、2020年最後にイタリア旅行を計画したが、コロナ発生、入院、仕事とで、海外旅行は出来なかった。3年後の2023年のタイ旅行を【60歳からのひとり旅Ⅹ】とした。これで孫2人にも話せる自慢話が出来る。

【60歳からのひとり旅】

2011年 オーストラリア2月     ひとり旅Ⅰ
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2013-02-25-10    
2011年 香港9月          ひとり旅Ⅱ       
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2013-02-25-5
2012年 スペイン/イタリア12月  ひとり旅Ⅲ
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2022-03-26-8             
2013年 追込み仕事の関係で、出来なかった。
2014年 ポルトガル/イタリア2月 ひとり旅Ⅳ
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2013-12-24
2015年 パリ2月         ひとり旅Ⅴ
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2015-02-10
2016年 スペイン1月       ひとり旅Ⅵ
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2015-11-03
2017年 スペイン/ポルトガル7月 ひとり旅Ⅶ 
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2017-07-10-1        
2018年 スペイン 5月      ひとり旅Ⅷ
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2018-04-21-1
2019年 チェコ/スロバキア 4月  ひとり旅Ⅸ
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2019-03-22
2020年~2022年 コロナ・入院 で旅行不可
2023年 タイ・チェンマイ 4月  ひとり旅Ⅹ
 https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2023-05-01

ほとんどが、スペインとイタリア。その訳は、旅の目的が、誕生日祝いを海外で迎えること。そのプレゼント箱の中身は、23歳頃から勉強・調査をしている『広場見学』だ。造られた広場でなく自然発生した広場、つまり歴史を持つ国、その歴史の中から必要にして生まれた広場、現在なお日常生活に生き続けている広場がある国は、「イタリア」と「スペイン」と「フランス」と「ポルトガル」と思う。

56歳の時に父、60歳の時に母が他界。郷里の唯一の親友、どんなことでも話し合える友、励ましてくれる友であり、相談のできる友であり、悩み事を聞いてくれる友の池尻君が逝った。僕のゆとりの心の支えが無くなった。ただ仕事、悩み、人生の苦労をしてきたと言うだけの人生では寂しい。また60歳を過ぎると一層に色んな出来事がある年齢だと思い、何か自分に楽しい思い出を残したく、このひとり旅行を続けた。

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【ひとり旅Ⅴ】 パリ 一口メモ [60歳からのひとり旅]

《60歳からのひとり旅 パリ》



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パリの歴史散歩 「メトロにのって」 著者 ロラン・ドゥッチ 訳 高井道夫
この本には、魅力的な言葉がたくさん載っている。その一部をメモしておこう。


シテ島から旅をはじめる。揺りかごの形をした島
「シテ島にはパリの頭脳とこころ、そして心臓がある」

シテ駅はセーヌ川の水面下20M、パリの胎内の奥深いところにある。

セーヌ川の由来は、女神セカーナ

パリという名の発祥は、パリソールム
ローマ人が住む上ルテティア、シテ島にはガリア人、下ルテティアはパリソールム(パリシィ人の街)と呼ばれた。彼らは川のめぐみで生計をたてていた。

ローマ帝国がパリの基礎を築いた

パリは、港町?
魚屋さんが多いのも、そうなんだ。

ローマ帝国が誕生してから70年後の紀元前52年、シテ島はただの沼地

シテ島からイタリア広場を通り、ローマに通じる街道がつくられた

南からのローマ人はセーヌの川左岸を植民地として開発、北方からのフランク族は、右岸に街をひろげた。
ルーブル美術館は、フランク人の砦そして、宮殿となり今の美術館の経緯

この都市の黄金時代には、シテ島には凡そ1万人が住み、街はセーヌ川の左岸まで、伸長した左岸には街はなかった。






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【ひとり旅Ⅸ】ブラチスラヴァ [60歳からのひとり旅]

《スロバキアの首都 ブラチスラヴァ》

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山の上にある城とすそ野に広がる街、そしてドナウ河

チェスキー・クロムロフからスイスのウイン経由で「ブラチスラヴァ」

4月10日所要時間6時間の旅、バス、電車を3回乗換、バスと乗り継ぐ
チェスキー・クロムロフの観光案内で、交通手段を色々尋ねて、この方法にした。(出発日が火曜日でなく翌日の水曜日だと直行便があった)朝6時45分発のバスで、近くのKaplice駅まで行き、2時間待って電車でLinz(Linzがオーストリアとも知らず)。車内でチェココルナで切符を買う。午後1時40分頃に着く。再度乗り換えてウイン、再度乗り換え、「ブラチスラヴァ」に到着。駅に到着したものの観光案内所もない、位置的にどこにいるかもわからず、バスの切符の買い方からバスの番号を教えてもらって、旧市街地地区に行く。

またバスの終着停から、目的のホテル探しを大変な思いをしながら、午後3時頃にやっとアパートを見付けた。受付の人が居たので良かったが、お腹が痛くなるやらで、やっとの思いで部屋に着く。
ここに辿り着くまで、色んな人と会話が出来て、旅の愉しさと思った。

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Kaplice駅で知り合ったウインに行く家族、奥さんが駅にスマホを忘れて大変


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疲れた顔が分かるだろうか?

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【ひとり旅Ⅰ】パースの都市構想 [60歳からのひとり旅]

オーストラリア大陸

オーストラリアの歴史は、1770年科学調査のために南太平洋を航海していた、英国人ジェームズ・クックが、現在のオーストラリアを英国領と宣言、流刑地のための大陸として歴史がはじまった。現在も国の元首はイギリスの女王エリザベス。


「Perthの魅力」

わかりやすい街
オーストラリアで一番大きな州、Western Australiaの州の人口約200万人の中、パースには約150万人が住む。シドニーに比べ、こじんまりとしたわかりやすい、住みやすい街。世界で住みやすい街として、とりあげられたことは分かる。

 生活に必要な施設は整ってはいるが、特別に大きなデパート、レジャー施設などがあるわけでもない。しっかりした文化施設、無料のバスなど交通機関も充実している。少し離れてはいるが、愉しめる場所はある。シドニーにいるときのように、時間に流されるのでなく、ゆっくり、ときの流れを感じられる街がパースの魅力。それが、Kevin LynchのいうLegibility(わかりやすさ)なのだろうか?わかりやすい都市とは、その中の地域とか目印とか道路などがたやすく見分けられ、しかもたやすく全体的なパターンへとまとめられるものであろう(リンチの都市のイメージ/丹下健三訳)。


街の広さ

1834年の地域計画図にみられるように、スワン川沿いに計画された。現在もパースの主要な地域となっている。都市のシンボルとなるスワンベルタワー、明確な街路(15~25m)、北は鉄道、南側と東側は川、西側はハイウエーとで、城壁に代わる地域を形成している。広さは東西4000m×1000mぐらい。

街の形、格子状
 
スワンベルタワーから伸びた南北街路を中心軸として、200~400m間隔に走る南北街路は川に下がって傾斜する。そして、スワン川(名前は原産のコクチョウによる)と並行した4本の道路、Wellington St.、Murray St.、Hay St、St・Georges Tce St.が約150M間隔の東西軸を構成している。

イメージづくりBuilding the image

この地域の主要道路は、スワン川のそばにある、スワンベルタワーから北の中央駅の方向に延びた主要南北軸Barrack St.。そして、川と平行に4本のほぼ同じ幅員の道路がある。この約150m×300m格子状につくられた街並み構成には、自分がどのあたりにいるのか理解できる。そして、川沿いには広い庭園をがある。交差点にシティーホール、教会がある。
東西軸と主要南北軸と交差した地点から2本の東西に、車の進入を規制した人間のためのモールがある。
このように、都市のイメージの本の書かれているような、パス、エッジ、ディストリクト、ノード、ランドマークの5つの要素が構成されている。

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【ひとり旅Ⅶ】ポルト 街と建築 [60歳からのひとり旅]

『ポルト 街と建築』
ここを訪れるきっかけは生前大橋巨泉が永六輔の番組で、“ポルトの露天で食べたイワシの焼き魚が美味しかった”と聞き、ポルトの旅を計画した。

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ポルトには6本の橋がある、どれも個性的で美しい。これらをスケッチすることで、ポルトの見学は終わったといっても良い。川沿いをずっと歩いたわけだから、最低でも5km、二倍で10km歩いて、美しいアングルを探した。

ある日、川沿いのルートを走るレトロな電車に乗った。そして、車窓から、外で魚を焼いている光景を見た。翌日ランチに食べに行った。何の魚を食べようかと、人のお皿を見たり、魚を焼いているところに行ったりして、相談して、「イワシとサラダミックス」を食べた。ただのイワシだが、美味しかった。

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『ひとり旅Ⅶ ポルトの旅 2017年7月27日~8月2日』

『ポルトは、リスボンの第二の都市、美しい街並みと橋と新しい建築が楽しい街』
大西洋に隣接するポルトは、街を南北に二分するドウロ川が流れている。南側はポルトワインで知られ倉庫が立ち並び、ポートワインを運んだ帆船が浮かび美しい。
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南北とも丘陵地に築かれ、川に流れ込む形状をした起伏があるだけに山岳都市を思わせる楽しい光景だ。そして、ドウロ川にかかる6本の橋が、非常に美しい。一番よく知られ、生活に欠かせないドン・ルイス一世橋1886年は、エッフェル塔1889年を設計したギュスターヴ・エフェルの弟子が設計した。上を電車と下は車と人が通る二重構造になっているこの橋は、下層部だけでも174mある。

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ここから川に飛び込んで遊んでいた子供が、“飛び込むから金をくれ”と言っていた。この橋を見るためにポルトに行くのも良い。エッフェルの設計したドナ・マリア・ピア1877年、すべての橋は美しい。

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この日は20km歩いた。そして近道をしようと、石段の細い急な道を上り、廃線になっている道に出たり、廃家の中を通ったりして、迷った。フェンスで外に出られなくて、Help,Aiutoと叫んで、近くの住民に助けてもらってやっとホテルに戻ったのが、午後9時40分だった。

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大西洋側の、車だけの鉄筋コンクリートの橋


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旧市街地の対岸から望む


現代建築の見学

日本を代表する建築家、「槇文彦」氏と5歳違い、1933年生まれの「アルヴァロ・シザ」。槇さん同様、現役で働いている。設計を見る限り、良いおじいさんになっているだろう。設計事務所に行こうと思って、美術館の売店の女性に住所を教えてもらった。二人の日本人が働いているとのことだったが…。こんな年になって、伺うのもどうかと思いやめた。

『近代美術館』
外観は「シークエンスを大切にした建築、環境を取り込んだ建築」だと思う。
そして、「天井高さ、通路幅などヒューマンなスケールで分かり易い空間を創り出している」と感じた。
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美術館の受付、オープンな感じだ。


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受付から玄関までわずかに傾斜している。右側が受付。


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中庭から左側美術館の玄関を見る。無駄のない空間つくり、分かりやすい。


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誰でも出来そうな空間デザインだが、引きつける。


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抑制した高さ、水平線、周辺の環境を配慮した控えめが外観。


『ポルト大学建築学部』

道を迷って、一度は諦めたが、美術館の売店の女性に見学を薦められて、翌日探しに行った。大学を見学後、帰りに、イワシを食べに行った。

「シークエンス」を外部空間構成と同様に内部にも取り込んでいる。
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大学の入り口、裏門か、控えめの空間、環境づくり。


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斜めの窓は、スロープに合わせた横長の窓。


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点在するマス、変化する空間・環境つくりだろうか?
ひとつにまとめていないのは、点在・変化を求めたのだろう。

大学は休校日。見学者が多いためか、自由に校舎の中まで入れた。広い敷地に点在するように計画され、近代美術館と同じ雰囲気がある。奇を狙ってもいない。ごくありふれた様々な顔を持つ空間の連続だ。

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長窓、スロープ。階段もある


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営業している喫茶コーナーもあった、外のテラスでコーヒーを飲んだ。50代の男性が一人コーヒーを飲んでいた。その人は、建築を志したが、止めて技術者として働いているとのこと。どこを見学すればいいとか、事細かく教えてくれた。ポルトの見学は今日が最終日。結局、彼が教えてくれた橋だけを見に行くことにした。


『その他の建築』

「Casa da  Musica」
何も言うことはありません。室内の音は良いのでしょうか?美しくはない、奇を狙った建築はこの歳になるを疲れて見たくないので、次の見学に行った。

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この空間は面白いとは思わない歳になった。


レロ・イ・イルマオン書店の向かいにある建物

世界遺産に登録されてからか、入店には4ユーロの入場料が必要。まだ、30~60分並ぶ。
並ぶのが嫌いなのでウロウロして、偶然向かいに楽しい建築を見付けた。
シザの弟子が設計したとのことを近代美術館の女性から聞いた。

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屋上庭園だが、ここでのんびりしていたら、どこにいるか忘れてしまう。愉しい空間、癒しの場所。


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建物を二つに分け、屋上で結合させ、屋上庭園をここまで表現しているのは、素晴らしい。地上のオリーブ畑にいるような気になる。不思議なのが、屋上でくつろいでるのが、ほとんど若い人達。結構大胆なスタイルで、思い気ままに日向ぼっこをしている。ブランコに乗ったり、ウエディングドレスの記念写真を撮る場所として、パーティ会場にしたり楽しい場所だ。屋上から世界遺産になっている本屋さん良く見える。
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すごい行列、有料なので書店の入店は止めた。


8月2日、ポルトからバルセロナに帰った、残り3日間を楽しもう。


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ポルトからバルセローナに向かう。


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【ひとり旅Ⅸ】プラハ カレル橋 [60歳からのひとり旅]

【ひとり旅Ⅸ】プラハ カレル橋

プラハの見学の最初の日、4月5日朝6時頃、カレル橋に行った。高さ7~8m(橋の床から/実測)には、圧倒された。この30人の聖人をスケッチすることを決めた。(説明書きは、ウイキペディアより)
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カレル橋を渡り、プラハ城に至る道を『王の道』とよばれた。


カレル橋は、カレル4世(在位1346~1378)の命をうけて城下町と商人の街をむすんで架けられた石橋。長い年月を掛けて、橋の幅9.5m、長さ510mの橋の両側の欄干の上に、30m間隔に30の聖人の石像が設置された。

ローマで広場とは『彫刻で囲まれた空間』、彫刻で囲まれない空間は広場ではなかった。広場は彫刻が主役今日のカレル橋は露天広場になっている。(プラハを歩く/田中充子著)

30人の聖人は、ボヘミヤに関連した聖人が多い。スケッチしてみて、5つの像が気になった。 7番(1707年イエッケル作)、9番(1938年ドヴァジャック)、12番(1857年マックス作)、16番(1720年ブライン作)、24番(1710年ブロコフ作)の作品が好きだ。重要なのは、7、10,15、24番だそうだ。

「聖人の高さ6m、橋から見上げて7mぐらい、2階建てのビルを見上げる」
聖人の高さは、様々ではあるが実測したら、床から7m以上ある。


4月15日朝7時から午後2時までのスケッチ作業。観光客が多くて色々、写真を撮らせて欲しいなど色々あったが楽しかった。
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人通りがある場所でのスケッチ、側で絵を売っている人もいるし、大変。


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1:聖イヴァ像(1711年ブラウー作)


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2:聖母と聖ベルナルド(1709年イエケル作)


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3:聖母と聖ドミニクス、トマス・アクイナス(1708年イエッケル作)ドミニコ会と聖母のつながり表現


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4:聖バルバラ、聖マルガリータ、聖エリザベート像(1707年ブロコフ作)


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5:ブロンズの十字架(1628年ヒルガ-とマックス)土台左右に聖母と聖ヨハネ像


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6:ピエタ像(1859年マックス作死後十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリア)


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7:聖アンナと聖母子(1707年イエッケル作)「安産」「丈夫な子供」「母乳」関する願い


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8:聖ヨセフ(1854年マックス作)イエスキリストの父ボヘミヤの守聖人の一人


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9:聖キュリロスと聖メトディウス(1938年トヴァジャック作)


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10:聖フランシスコ・ザビエル(1711年ロコフ作)イエズス会創設者の一人


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11:洗礼者ヨハネ(1857年マックス作)イエスキリストに洗礼をほどこした人物


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12:聖クリストファル(1857年マックス作)信者が危機の時難を救ってくれる聖人


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13:聖ヴァ―ツラフ、ノルベルト、ジギスムント(1857年マックス作)キリストを布教した人達


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14:聖ボルジア・フランシスコ(1810年ブロコフ作)


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15:聖ヤン・ネボムッキ-(1683年ブロコフ作)ボヘミヤで最も人気のある聖人。
投獄後mカレル橋から川に投げ込まれ死、最初に製作された彫像
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16:聖ルドミラとヴァ―ツラフ(1720年ブライン作)ボヘミヤにキリスト教を布教した聖女)

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【ひとり旅Ⅸ】チェスキークロムロフ [60歳からのひとり旅]

チェスキー・クロムロフの三日間
何処にも行かず、ゆっくりとスケッチとカモとの遊びと夜景を楽しんだ日々

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プラハでは、ゴ~ン~  ゴ~ン~という教会の鐘の音で起き
(5時は5回の音、そして、30分毎、30分には鐘の音は二回)

チェスキー・クロムロフでは、川の流れの音、鳥の囀りで目覚めた
というよりも、僕の方が1時間ぐらい早く起きるので、‥でも雰囲気的にはそうだった。


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蛇行する川に囲まれた小さな街


チェスキー・クロムロフの街をS字に蛇行するヴルタヴァ川が流れている。街と城の建設は13世紀後半に始まった。14世紀以降、川を利用したボヘミアの重要な通商路となり、手工業と交易が盛んになった。16世紀以降、ルネサンス様式の建物、領主が変わり17世紀以降、バロック様式も取り入られた。混在した様式を持つ街だが1992年、歴史地区を文化遺産の街として登録された。

2019年4月10日、旅も1週間目になる。言葉を覚えた。これも海外の旅だから愉しめること。
「お早う」を、“ドブレー ラーノ”と言う。そして、「こんにちは」は、“ドブリー デン”  「ありがとう」は、“ヂュクイ” 何回も使い、笑顔、笑われたりの返事ではあったが、でも、一時の旅行気分には慣れる。ただ、私にとっては覚えにくくすぐ忘れた。

チェスキー・クロムロフは、ときの流れがゆっくり、チェコの田舎町、落ち着いた街

本当に観光だけの街だ。観光客のためのアパートとして、観光客のためのレストラン、お土産店だけが並ぶ街だ。あるレストランに来るカモの夫婦と遊ぶ、カモにもテリトリーがあり、縄張り争いを良く見かける。
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カモの夫婦のテリトリーはこのレストラン辺り


川に囲まれた、美しい街だ。他の街に観光をと思ったが、ここでゆっくりスケッチをすることに決めた。
昼食と夕食は、COOPで買い物をして、アパートで自炊の日々だった。
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右手前の子供のお店で、孫のお土産を買った


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この階段を下りて私の借りたアパートに行く


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何を話しているのか、ここにはいつも誰かが腰かけている


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【ひとり旅Ⅸ】プラハ [60歳からのひとり旅]

【ひとり旅Ⅸ】中欧プラハ
チェコスロバキアは、1993年、ベルリンの壁が崩壊後、チェコ共和国とスロバキア共和国と二つの分れ、チェコの首都はプラハ。スロバキアの首都は、4月10日に行く、プラティスラバ。通貨はコルナ。プラハは、“ヨーロッパのヘソ”と呼ばれている。或は、プラハは、“北のローマ”、“童話の国”、“百塔の街”、“黄金のプラハ”とも呼ばれている。
プラハほど色々の名が似合う街はない
パリ、マドリード、ウイーン、ローマより美しい街だろう
プラハのカフェの朝は遅い、朝起きが好きな私は、フィレンツェが好き



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ヴルタヴァ川(ドイツ語モルタウ川)で2分され、西のお城、城下町と東の旧市街、新市街の4区分。“歴史は6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成された。9世紀に西側の丘陵にプラハ城の基礎となった城塞が築かれたことに始まる。‥12世紀になってボヘミア王国に昇格して領土が拡大、14世紀半ば、ボヘミア王国カレル1世が神聖ローマ皇帝カール4世になると、プラハは帝国の首都となった。(世界遺産100より)“


様々な映画のロケ地に使われる、永遠に美しい街

「ミッションインポッシブル」 「のだめカンタービレ」等多数



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交通機関の地下鉄・トラム・バスはすべて同じ切符を利用

切符は、必ず使用前に時間を、改札にあるの刻印機に自分で刻印することをわすれにこと。ほとんど駅員はいない。
乗車下車時に、極たまに、乗車券の検査員に出くわします。日本人は、観光客だからチェックされないかもしれない。でも見つかれば2倍の料金を取られます。金額より、嫌な思いをするから買った方が良い。

自動改札機は、良く壊れているので、タバコ屋さんを見付けて買ってください。60分、90分、1日券、3日券などあります。


私の「おとぎ話に出てきそうな幻想的なプラハ」の観光は、「室内弦楽コンサート」(シニア料金聴ける)と「カレル橋の30人の聖人」の見学だった。

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プラハでは、室内コンサートを3回(それも、シニア料金)聴きに行った。
毎回、1時間、夜6時或は、夜8時からだった。
懐かしい音楽、日本的なフレーズ(タイトルが“新世界”1893年、ドボルザーク作/チェコ生まれ、1841~1904とも知らず)だな~と思いながら聴いていた。
それもスメタナの音楽ホール(ドボルザークとスメタナの関係も知らず)で演奏された。演奏中もスケッチをしていたが」、前の列の男の子が、じろじろ見るので途中で中止。
旅から帰って、ラジオから流れる新世界を聞くたびに、そのときのことが懐かしく思う
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カレル橋は夜景と朝焼けと一日中、美しい景観を愉しめる


朝6時頃の景観“街灯と聖人が浮出してくる美しさ”

ガス燈の明るくも瀟洒な光に何か凛としたものを感じる。ガス燈の清廉なる灯りがしっくりくると思う/服部圭郎氏
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お城、カレル橋にライトアップされえた景観は美しい

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【その他の観光】


「ダンスをするビル」

建設当時、1995年、ヴルタヴァ川沿いに建つ、「ダンスをするビル」(二人の設計 ひとりのアメリカの建築家フランク・O・ゲーリー)は、専門家たちから批判されたが、すっかり環境に溶け込みプラハの観光名所になってなっている。ホテルとして利用されている。屋上は有料で見学できる。
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「プラハの城壁」

城壁も素晴らしいディテールが見られる。ローマ人とは違ったディテールの城壁だ
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山の傾斜地に築く城壁、笠木の煉瓦との複合


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石積みの目地つぶし

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「マラー・ストラナ地区」

プラハ城の城下町の街、ドイツ人とイタリア人によってつくられた街、さすがにイタリア的(ロマネスク様式、壁に開口部が少ない)な雰囲気がある。

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【ひとり旅Ⅸ】 チェコ・スロバキアの旅  [60歳からのひとり旅]

【ひとり旅Ⅸ】プラハ、チェスキークロムロフ、プラチスラヴァ
はじめての中欧、暗いイメージで広場調査のにはなかったが、友人から“世界で一番美しい街がプラハ”と、聞いたからだった。そして、美しい街には、美しい広場があると思った。

《60歳最後のひとり旅Ⅸ》は、中央ボヘミヤの中心都市、“ヨーロッパのヘソ”と呼ばれるプラハを中心に旅をした。プラハからの移動は電車とバス。チェコ、チェコの隣がドイツ、出来ればドイツにも立ち寄り一口ビールでもと思ったが、時間に余裕を持たせた旅ということで中止し、プラハでの滞在を大切にした。仕事の関係はというと、住宅は2月2日に引渡し終了、次のビルの用途変更の仕事がほぼ終わったタイミング。時間に余裕のある旅を計画できた。


『60歳からのひとり旅Ⅸ』
2019.4月4日~4月17日 14日間の旅

        航空券と電車バス 100,000円+20,000円
        宿泊費        110,000円
        その他 食事等  70,000円 合計 300,000円       
中欧は物価も安く、移動の交通費も思った以上に安かった。

〈航空券はHISで手配〉

前回通り、ネット検索し、HIS新宿店に行って予定を決める。プラハの直行便は無く、ポーランド経由でプラハに行く。初めてのポーランドの飛行機会社、LOTポーランド航空を利用。

〈旅行内容〉

4月4日~7日  成田を10時15分発、ポーランド経由でプラハに午後7時15分着。
4月7日~10日 プラハ午前10時に出発して、高速バスでチェスキー・クロムロフ午後1時頃
4月10日~13日 チェスキー・クロム午前7時20分に出発して、バスと電車で午後2時前にスロバキアのプラチスラヴァ着。 
4月13日~16日 プラチスラヴァから電車でプラハ
4月17日  時間通りに  成田に午後2時に到着
 
<目的>

世界一美しい都市に行き、スケッチと広場を探すこと。


イタリア語、スペイン語と全く違う言語、少し殻にこもりがちになった。でも好きな広場は見付かり、そしてプラハのカレル橋とチェスキークルムロフの街のスケッチは楽しく、それが今回の収穫の旅だった。持参した本は「プラハを歩く/著者 田中充子」
20190402145238のコピー.jpg

「チェコ」 と「スロヴァキア」そして、ちょこっと、ウィーン
 

4月4日 自宅を朝5時25分に出て、成田に行く。プラハからホテルまでの交通費等を考え、チェコのお金コルナを1.2万円分(レート0.57)を両替。成田から午前10時15分発LOTポーランド航空に乗る。機内食も美味しく、それ以外にインスタントラーメンの「OYAKATA」味の素が美味しかった。ポーランドのフレディリック・ショパン国際空港に4月4日午後2時30分に到着。そして、3時間後、プラペラ機でプラハに午後7時30分頃到着、安全飛行操縦だ。
プラペラ機プラハ.jpg
 久しぶりのプロペラ機で、プラハに午後7時過ぎに着いた、もうすぐ日没。

飛行場から100番のバス、車内で切符を買って、バスと地下鉄を利用し、ホテルの近くの駅に行く。目的のホテルには、午後9時過ぎに到着。ここで、前払いだとか言われて、違和感を覚えて、“部屋を見ないと払えない”と話して部屋を見せてもらた。“お湯が出ない”、“電気がつかない”部屋を紹介された。“他の部屋は無い”とか言っていたが、粘って話をして、やっと部屋を変えてもらって一安心。その日はシャワーを浴びて、すぐに寝た。

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