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「スローに生きる」島津菜津 [歳とること]

「スローに生きる」
 
ノンフィクション作家 島津菜津(NHKラジオ第一 100528)
ラジオ番組で、はじめて島村菜津さんのことを知った。私もイタリア生活の経験があり、今もイタリアという言葉が聞けば、知らないうちに耳を傾けてしまう。

島村菜津さんは、イタリアの食いしん坊親父たちが立ち上げた『スローフードな人生』の彼らの活動を紹介している。“ファストフードやコンビニ弁当、レンジでチンを常食とする若者たち。この食のありようを、もう少しスローにしようというのが、スローフード運動。まずは、日々の食卓をじっくり見つめ直す。そして生産者にもっと近づき、食卓の時間をもっと大切にし、自然を大事にする生産者を守ろうというわけだ。”http://eco.goo.ne.jp/food/slowfood/danwa/danwa01.html

市民の「スローフード運動」の力、“食”を通じて、イタリアのある閑散としていた小さな街,ジッリオ島(Isola del Giglio/「イタリアの最も美しい村」に加入)が、活気のある街として生き返った話。そして、日本の「日本の最も美しい村」に加入している北海道美瑛町についても話されていた。www.aim-enterprise.com/GrossetoAreaGuide/Giglio.htm
www.town.biei.hokkaido.jp

1975年にイタリアから帰国、それから15年ぶりに訪れたミラノ、ボローニャ。ファーストフードの店、コンビニ店が進出していることにびっくりしたことを思い出した。

日本では、すっかりファーストフードが定着し、日本の食文化も変わった。街を限定した城壁で囲まれた自治都市の思想を持つイタリアとは違い、日本は道路に沿って広がるアメーバー状の区切りのない都市づくり。食生活は、どこに行ってもファーストフードレストランが目立つ。そうした日本にも食文化を見直そうとする街があるのはすばらしい。


スロー人生書.jpg『スローな未来へ』(著者/島村菜津)によると、「スローフード運動」の考えを持つ、「日本の最も美しい村」づくりが広がっている。05年10月に7町村からスタートし、現在09年10月で33町村が参加。食文化から地域づくりが形成され、地域領域における中心の場、新しい広場の形が出来るだろう。小さな街から「スローフード運動」が広がることに期待したい。

“もはや大都市では望めない質の高い暮らし、ゆったりとした時間を人間サイズの街づくりに奮闘する人々が増えている。「自分たちの町は自分たちで創る。自分たちの暮らしは自分たちで守る」”(『スローな未来へ』)


60歳を過ぎた私は、外食が好きでない。自宅で食べるのが一番好きだ。いくら高級な食事をしても、どうも落ち着かない。自宅で梅干し、野沢菜をおかずにして、お茶漬けを食べる方が良い。そういう食生活も“私のスローフードの生活”を楽しんでいるわけだ。

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善意のコーヒー ナポリ [食べること]

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Coffee Sospeso『善意のコーヒー』

善意のコーヒーと言う言葉をご存じだろうか?私は日経新聞夕(2013.5.7)で知った。
「善意のコーヒーの習慣の復活運動」が始まったのがナポリ”。
「'Coffee Sospeso' イタリアだからこそ生まれた運動だろう」
この運動はカナダ、オーストラリア、英国、フランスなどに広がっているようだ。日本では難しいだろう。

“ナポリっ子は特にエスプレッソが好き”だとこの新聞に書かれている。
あるブログでは、エスプレッソの発祥地がナポリだと書かれているが、そうではないようだ。(ja.wikipedia.org/wiki/エスプレッソ)いずれにしてもイタリア人はコーヒーが好きだ。


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東日本大震災 瀬戸内寂聴の言葉 生きる [学ぶこと]

【瀬戸内寂聴の言葉】
 
朝日夕110330

瀬戸内寂聴氏が2021年〈令和3年〉11月9日に他界されて、過去の記事を見直した。



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私は「無常」を、この世のはかなさを示す言葉と考えず、「この世は常ならず」と自分流に判断してきた。この世では同じ状態は決して続かない。卒寿を迎えるまで生きた私の経験と実感がそれを私に植え付けた。私の「無常観」によれば、現在のこの世の地獄も、必ずどん底からの反動として、今に立ち上がり、希望の見える世の中に変わると信じて疑わないのである。



私たちはどんな不幸の中でも決して絶望してはならない。暗闇の空に希望の星を見出す力を人間は与えられてここまで生きてきた。

被災者の皆さんのご苦労…どうか緊張と不安を少しでもいたわり、控えめでつつましく日頃の美徳を解放して、わがままになって下さい。
難を逃れた私たちは日夜、夢の中までも、あなたたちのご苦労を分け持たせてほしいとか、切に願いつつ祈りつづけているのです。


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ミラノ 朝のバールで 宮本映子 [私の読書]

宮本 映子著『ミラノ 朝のバールで』

久しぶりにイタリアでの生活、イタリア人のことを思い出す内容だった。
道路を尋ねた時の彼らの対応でも、けっして知らないとは言わず、間違った道案内も丁寧に教えてくれる。これは、フランスでも同じ経験をした。そして、バールでのイタリア人の振り舞いは、日本人のようにコーヒーや紅茶を座ってゆっくり味わうと言うことは滅多にしない。バールは彼らにとって本当に生活の一部で、本当に空気の如きものだ。その通りだ。
ミラノでは、小学生の娘・息子の登下校は、父親が送り迎えをする光景をよく見かけた。イタリアは経営者が多いし、通勤距離が短いしね。父親は日本のようにほとんど母親任せにはしない。イタリアでは「子供はわが魂のかけら」というそうだ。

僕の体験だが、ナポリの飛行場から目的地の市内のホテルまで、タクシーに乗ったときのこと。若いドライバーは、怖いぐらいスピードで走り、ホテルには早く着いた。早く着いたのだから、そして二人載せているのだからチップと運賃を二倍要求されたこともあった。フィレンツェの飛行場から市内まで、外人のカップルと私の3人でタクシーに同乗、支払う段階で、同乗者は、僕に運賃の半分要求した。でも僕は3人だから3分の1だと言い張った。ドライバーは、僕に賛同してくれた。僕は3分の1をドライバーに払って、別れた。外人は納得できず、その後も、ドライバーと論争していた。本当に人情味あふれる人たちだ。

電車・バスでの出来事、マーケットでの買い物の出来事、すべてがその通りだったーなーと懐かしくさせてくれた本だった。

尾道出身の宮本さんは、尾道に住む従妹に似た顔立ち、何か親しみを感じる。尾道は、小さい頃何度か訪れ、大人になってから3度は行っている。私の実家から車で1時間30分。静かな町、平地はほとんどなく、後方を山に囲まれて、山には“文学のこみち”(尾道は作家、林芙美子や志賀直哉、歌人、正岡子規など多くの文人墨客のゆかりの地)が懐かしい。

宮本さんは彼、イタリア人との出会いが、運命のいたずらか、彼女の一生を決めた。全く経済力がない2人が結婚。若いからできるのだろう。その後、三軒の店を構える彼はすばしい。外国での生活、相手が経済力のある人で良かった。ほんとうに運命の出会いはあるんだなー。

イタリアはこの国で出会う様々な色彩、かたち、音、匂い、味のすべてが常に五感を頼ませてくれる。

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イタリアの小さな街 暮らしと風景 メルカテッロ [学ぶこと]

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建築家井口勝文氏(福岡県出身、1941年生れ)は、ご夫婦で1970年代から、当時留学先のフィレンツェ大学のあるフィレンツェを中心にトスカーナ州で、将来の家を探していた。30歳代からイタリアに住みたいと思っていたわけだ。1993年、52歳になり、友人の紹介でメルカテッロ(ぺーザロ・エ・ウルビーノ県 メルカテッロ・スル・メタウロ)と出会い、ひとめぼれなんだろう、同年の11月に住まいを手に入れた。そして、なんと16年間(大学で教鞭しながらの16年だろう)を掛けて修復工事、70歳の2010年から、残り人生の半分をメルカテッロで、素晴らしい友人達(16年間の中で、酒好きと人柄で、多くの人との出会い)とともに生きて行く。という内容、都市計画家・建築の設計をする立場で1994年から初版の2021年、20年以上をかけて書かれた,たのしく読める内容の本。これからも建物・住まいは娘、孫へと受継がれ生き続けていくわけだ。昨年2023年、13年間が過ぎ楽しいそうな便りをもらった。井口ご夫妻にCin、Cin。
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元気な井口ファミリィ―、左端が町長2023年

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【ひとり旅Ⅸ】ブラチスラヴァ [60歳からのひとり旅]

《スロバキアの首都 ブラチスラヴァ》

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山の上にある城とすそ野に広がる街、そしてドナウ河

チェスキー・クロムロフからスイスのウイン経由で「ブラチスラヴァ」

4月10日所要時間6時間の旅、バス、電車を3回乗換、バスと乗り継ぐ
チェスキー・クロムロフの観光案内で、交通手段を色々尋ねて、この方法にした。(出発日が火曜日でなく翌日の水曜日だと直行便があった)朝6時45分発のバスで、近くのKaplice駅まで行き、2時間待って電車でLinz(Linzがオーストリアとも知らず)。車内でチェココルナで切符を買う。午後1時40分頃に着く。再度乗り換えてウイン、再度乗り換え、「ブラチスラヴァ」に到着。駅に到着したものの観光案内所もない、位置的にどこにいるかもわからず、バスの切符の買い方からバスの番号を教えてもらって、旧市街地地区に行く。

またバスの終着停から、目的のホテル探しを大変な思いをしながら、午後3時頃にやっとアパートを見付けた。受付の人が居たので良かったが、お腹が痛くなるやらで、やっとの思いで部屋に着く。
ここに辿り着くまで、色んな人と会話が出来て、旅の愉しさと思った。

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Kaplice駅で知り合ったウインに行く家族、奥さんが駅にスマホを忘れて大変


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疲れた顔が分かるだろうか?

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【ひとり旅Ⅰ】パースの都市構想 [60歳からのひとり旅]

オーストラリア大陸

オーストラリアの歴史は、1770年科学調査のために南太平洋を航海していた、英国人ジェームズ・クックが、現在のオーストラリアを英国領と宣言、流刑地のための大陸として歴史がはじまった。現在も国の元首はイギリスの女王エリザベス。


「Perthの魅力」

わかりやすい街
オーストラリアで一番大きな州、Western Australiaの州の人口約200万人の中、パースには約150万人が住む。シドニーに比べ、こじんまりとしたわかりやすい、住みやすい街。世界で住みやすい街として、とりあげられたことは分かる。

 生活に必要な施設は整ってはいるが、特別に大きなデパート、レジャー施設などがあるわけでもない。しっかりした文化施設、無料のバスなど交通機関も充実している。少し離れてはいるが、愉しめる場所はある。シドニーにいるときのように、時間に流されるのでなく、ゆっくり、ときの流れを感じられる街がパースの魅力。それが、Kevin LynchのいうLegibility(わかりやすさ)なのだろうか?わかりやすい都市とは、その中の地域とか目印とか道路などがたやすく見分けられ、しかもたやすく全体的なパターンへとまとめられるものであろう(リンチの都市のイメージ/丹下健三訳)。


街の広さ

1834年の地域計画図にみられるように、スワン川沿いに計画された。現在もパースの主要な地域となっている。都市のシンボルとなるスワンベルタワー、明確な街路(15~25m)、北は鉄道、南側と東側は川、西側はハイウエーとで、城壁に代わる地域を形成している。広さは東西4000m×1000mぐらい。

街の形、格子状
 
スワンベルタワーから伸びた南北街路を中心軸として、200~400m間隔に走る南北街路は川に下がって傾斜する。そして、スワン川(名前は原産のコクチョウによる)と並行した4本の道路、Wellington St.、Murray St.、Hay St、St・Georges Tce St.が約150M間隔の東西軸を構成している。

イメージづくりBuilding the image

この地域の主要道路は、スワン川のそばにある、スワンベルタワーから北の中央駅の方向に延びた主要南北軸Barrack St.。そして、川と平行に4本のほぼ同じ幅員の道路がある。この約150m×300m格子状につくられた街並み構成には、自分がどのあたりにいるのか理解できる。そして、川沿いには広い庭園をがある。交差点にシティーホール、教会がある。
東西軸と主要南北軸と交差した地点から2本の東西に、車の進入を規制した人間のためのモールがある。
このように、都市のイメージの本の書かれているような、パス、エッジ、ディストリクト、ノード、ランドマークの5つの要素が構成されている。

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【ひとり旅Ⅶ】ポルト 街と建築 [60歳からのひとり旅]

『ポルト 街と建築』
ここを訪れるきっかけは生前大橋巨泉が永六輔の番組で、“ポルトの露天で食べたイワシの焼き魚が美味しかった”と聞き、ポルトの旅を計画した。

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ポルトには6本の橋がある、どれも個性的で美しい。これらをスケッチすることで、ポルトの見学は終わったといっても良い。川沿いをずっと歩いたわけだから、最低でも5km、二倍で10km歩いて、美しいアングルを探した。

ある日、川沿いのルートを走るレトロな電車に乗った。そして、車窓から、外で魚を焼いている光景を見た。翌日ランチに食べに行った。何の魚を食べようかと、人のお皿を見たり、魚を焼いているところに行ったりして、相談して、「イワシとサラダミックス」を食べた。ただのイワシだが、美味しかった。

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『ひとり旅Ⅶ ポルトの旅 2017年7月27日~8月2日』

『ポルトは、リスボンの第二の都市、美しい街並みと橋と新しい建築が楽しい街』
大西洋に隣接するポルトは、街を南北に二分するドウロ川が流れている。南側はポルトワインで知られ倉庫が立ち並び、ポートワインを運んだ帆船が浮かび美しい。
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南北とも丘陵地に築かれ、川に流れ込む形状をした起伏があるだけに山岳都市を思わせる楽しい光景だ。そして、ドウロ川にかかる6本の橋が、非常に美しい。一番よく知られ、生活に欠かせないドン・ルイス一世橋1886年は、エッフェル塔1889年を設計したギュスターヴ・エフェルの弟子が設計した。上を電車と下は車と人が通る二重構造になっているこの橋は、下層部だけでも174mある。

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ここから川に飛び込んで遊んでいた子供が、“飛び込むから金をくれ”と言っていた。この橋を見るためにポルトに行くのも良い。エッフェルの設計したドナ・マリア・ピア1877年、すべての橋は美しい。

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この日は20km歩いた。そして近道をしようと、石段の細い急な道を上り、廃線になっている道に出たり、廃家の中を通ったりして、迷った。フェンスで外に出られなくて、Help,Aiutoと叫んで、近くの住民に助けてもらってやっとホテルに戻ったのが、午後9時40分だった。

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大西洋側の、車だけの鉄筋コンクリートの橋


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旧市街地の対岸から望む


現代建築の見学

日本を代表する建築家、「槇文彦」氏と5歳違い、1933年生まれの「アルヴァロ・シザ」。槇さん同様、現役で働いている。設計を見る限り、良いおじいさんになっているだろう。設計事務所に行こうと思って、美術館の売店の女性に住所を教えてもらった。二人の日本人が働いているとのことだったが…。こんな年になって、伺うのもどうかと思いやめた。

『近代美術館』
外観は「シークエンスを大切にした建築、環境を取り込んだ建築」だと思う。
そして、「天井高さ、通路幅などヒューマンなスケールで分かり易い空間を創り出している」と感じた。
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美術館の受付、オープンな感じだ。


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受付から玄関までわずかに傾斜している。右側が受付。


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中庭から左側美術館の玄関を見る。無駄のない空間つくり、分かりやすい。


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誰でも出来そうな空間デザインだが、引きつける。


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抑制した高さ、水平線、周辺の環境を配慮した控えめが外観。


『ポルト大学建築学部』

道を迷って、一度は諦めたが、美術館の売店の女性に見学を薦められて、翌日探しに行った。大学を見学後、帰りに、イワシを食べに行った。

「シークエンス」を外部空間構成と同様に内部にも取り込んでいる。
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大学の入り口、裏門か、控えめの空間、環境づくり。


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斜めの窓は、スロープに合わせた横長の窓。


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点在するマス、変化する空間・環境つくりだろうか?
ひとつにまとめていないのは、点在・変化を求めたのだろう。

大学は休校日。見学者が多いためか、自由に校舎の中まで入れた。広い敷地に点在するように計画され、近代美術館と同じ雰囲気がある。奇を狙ってもいない。ごくありふれた様々な顔を持つ空間の連続だ。

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長窓、スロープ。階段もある


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営業している喫茶コーナーもあった、外のテラスでコーヒーを飲んだ。50代の男性が一人コーヒーを飲んでいた。その人は、建築を志したが、止めて技術者として働いているとのこと。どこを見学すればいいとか、事細かく教えてくれた。ポルトの見学は今日が最終日。結局、彼が教えてくれた橋だけを見に行くことにした。


『その他の建築』

「Casa da  Musica」
何も言うことはありません。室内の音は良いのでしょうか?美しくはない、奇を狙った建築はこの歳になるを疲れて見たくないので、次の見学に行った。

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この空間は面白いとは思わない歳になった。


レロ・イ・イルマオン書店の向かいにある建物

世界遺産に登録されてからか、入店には4ユーロの入場料が必要。まだ、30~60分並ぶ。
並ぶのが嫌いなのでウロウロして、偶然向かいに楽しい建築を見付けた。
シザの弟子が設計したとのことを近代美術館の女性から聞いた。

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屋上庭園だが、ここでのんびりしていたら、どこにいるか忘れてしまう。愉しい空間、癒しの場所。


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建物を二つに分け、屋上で結合させ、屋上庭園をここまで表現しているのは、素晴らしい。地上のオリーブ畑にいるような気になる。不思議なのが、屋上でくつろいでるのが、ほとんど若い人達。結構大胆なスタイルで、思い気ままに日向ぼっこをしている。ブランコに乗ったり、ウエディングドレスの記念写真を撮る場所として、パーティ会場にしたり楽しい場所だ。屋上から世界遺産になっている本屋さん良く見える。
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すごい行列、有料なので書店の入店は止めた。


8月2日、ポルトからバルセロナに帰った、残り3日間を楽しもう。


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ポルトからバルセローナに向かう。


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【ひとり旅Ⅸ】プラハ カレル橋 [60歳からのひとり旅]

【ひとり旅Ⅸ】プラハ カレル橋

プラハの見学の最初の日、4月5日朝6時頃、カレル橋に行った。高さ7~8m(橋の床から/実測)には、圧倒された。この30人の聖人をスケッチすることを決めた。(説明書きは、ウイキペディアより)
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カレル橋を渡り、プラハ城に至る道を『王の道』とよばれた。


カレル橋は、カレル4世(在位1346~1378)の命をうけて城下町と商人の街をむすんで架けられた石橋。長い年月を掛けて、橋の幅9.5m、長さ510mの橋の両側の欄干の上に、30m間隔に30の聖人の石像が設置された。

ローマで広場とは『彫刻で囲まれた空間』、彫刻で囲まれない空間は広場ではなかった。広場は彫刻が主役今日のカレル橋は露天広場になっている。(プラハを歩く/田中充子著)

30人の聖人は、ボヘミヤに関連した聖人が多い。スケッチしてみて、5つの像が気になった。 7番(1707年イエッケル作)、9番(1938年ドヴァジャック)、12番(1857年マックス作)、16番(1720年ブライン作)、24番(1710年ブロコフ作)の作品が好きだ。重要なのは、7、10,15、24番だそうだ。

「聖人の高さ6m、橋から見上げて7mぐらい、2階建てのビルを見上げる」
聖人の高さは、様々ではあるが実測したら、床から7m以上ある。


4月15日朝7時から午後2時までのスケッチ作業。観光客が多くて色々、写真を撮らせて欲しいなど色々あったが楽しかった。
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人通りがある場所でのスケッチ、側で絵を売っている人もいるし、大変。


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1:聖イヴァ像(1711年ブラウー作)


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2:聖母と聖ベルナルド(1709年イエケル作)


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3:聖母と聖ドミニクス、トマス・アクイナス(1708年イエッケル作)ドミニコ会と聖母のつながり表現


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4:聖バルバラ、聖マルガリータ、聖エリザベート像(1707年ブロコフ作)


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5:ブロンズの十字架(1628年ヒルガ-とマックス)土台左右に聖母と聖ヨハネ像


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6:ピエタ像(1859年マックス作死後十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリア)


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7:聖アンナと聖母子(1707年イエッケル作)「安産」「丈夫な子供」「母乳」関する願い


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8:聖ヨセフ(1854年マックス作)イエスキリストの父ボヘミヤの守聖人の一人


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9:聖キュリロスと聖メトディウス(1938年トヴァジャック作)


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10:聖フランシスコ・ザビエル(1711年ロコフ作)イエズス会創設者の一人


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11:洗礼者ヨハネ(1857年マックス作)イエスキリストに洗礼をほどこした人物


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12:聖クリストファル(1857年マックス作)信者が危機の時難を救ってくれる聖人


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13:聖ヴァ―ツラフ、ノルベルト、ジギスムント(1857年マックス作)キリストを布教した人達


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14:聖ボルジア・フランシスコ(1810年ブロコフ作)


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15:聖ヤン・ネボムッキ-(1683年ブロコフ作)ボヘミヤで最も人気のある聖人。
投獄後mカレル橋から川に投げ込まれ死、最初に製作された彫像
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16:聖ルドミラとヴァ―ツラフ(1720年ブライン作)ボヘミヤにキリスト教を布教した聖女)

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【ひとり旅Ⅸ】チェスキークロムロフ [60歳からのひとり旅]

チェスキー・クロムロフの三日間
何処にも行かず、ゆっくりとスケッチとカモとの遊びと夜景を楽しんだ日々

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プラハでは、ゴ~ン~  ゴ~ン~という教会の鐘の音で起き
(5時は5回の音、そして、30分毎、30分には鐘の音は二回)

チェスキー・クロムロフでは、川の流れの音、鳥の囀りで目覚めた
というよりも、僕の方が1時間ぐらい早く起きるので、‥でも雰囲気的にはそうだった。


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蛇行する川に囲まれた小さな街


チェスキー・クロムロフの街をS字に蛇行するヴルタヴァ川が流れている。街と城の建設は13世紀後半に始まった。14世紀以降、川を利用したボヘミアの重要な通商路となり、手工業と交易が盛んになった。16世紀以降、ルネサンス様式の建物、領主が変わり17世紀以降、バロック様式も取り入られた。混在した様式を持つ街だが1992年、歴史地区を文化遺産の街として登録された。

2019年4月10日、旅も1週間目になる。言葉を覚えた。これも海外の旅だから愉しめること。
「お早う」を、“ドブレー ラーノ”と言う。そして、「こんにちは」は、“ドブリー デン”  「ありがとう」は、“ヂュクイ” 何回も使い、笑顔、笑われたりの返事ではあったが、でも、一時の旅行気分には慣れる。ただ、私にとっては覚えにくくすぐ忘れた。

チェスキー・クロムロフは、ときの流れがゆっくり、チェコの田舎町、落ち着いた街

本当に観光だけの街だ。観光客のためのアパートとして、観光客のためのレストラン、お土産店だけが並ぶ街だ。あるレストランに来るカモの夫婦と遊ぶ、カモにもテリトリーがあり、縄張り争いを良く見かける。
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カモの夫婦のテリトリーはこのレストラン辺り


川に囲まれた、美しい街だ。他の街に観光をと思ったが、ここでゆっくりスケッチをすることに決めた。
昼食と夕食は、COOPで買い物をして、アパートで自炊の日々だった。
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右手前の子供のお店で、孫のお土産を買った


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この階段を下りて私の借りたアパートに行く


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何を話しているのか、ここにはいつも誰かが腰かけている


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