武蔵境 三人の友達 [友だちとの会]
『三人の友達 武蔵境』
2015年6月7日、武蔵境の近くに事務所をもつ友人3人、久しぶりに武蔵境で会った。そして、武蔵野茶房で食事をし、近くのスタバでコーヒーを飲んだ。情報交換というか、近況の話をして、憂さ晴らしをした。
ここ4年の間に、大切な友、池尻君、早崎君、宮崎君、立花君が他界した。自分だっていつまで生きているなどと考えながら、事務所、家に一人でこもっていると、将来先々のことをマイナーに考えがちになる気性である。
三人とも、スタッフ有無はともかくとして、設計事務所の代表者。
それぞれ、時間に縛られるのでなく、自分の生活リズムに合わせて働いている。中央の疲れ顔の私は、土曜日、日曜日、祝日も、ほとんど境の事務所に来ている。今、ブログを書いているように、事務所を書斎代わりにも使っている。朝7時頃から夜の6時まで、事務所のあるこの武蔵境にいる。時間があると、スタバに行くという日々を送っている。
武蔵境に設計事務所を開設して、24年目になる。ここまで来ると、他人の作った建築を見る気はしない。
若い頃と変わらないのは、美しいものを見ることだ。素直に見て、美しいもの。子供であったり、女性であったり、花であったり、先週の土曜日は、久しぶりに休日として、日本海を見に、寺泊までドライブした。
この次は、御殿場に行って、富士山をみようと思っている。
まあ、年金生活が出来ない私の場合は、生きている限り仕事をして、一日一日を大切に生きていこうと思っている次第です。
2年と6カ月ぶり、2018年1月3日、前と同じ店、武蔵野茶房で食事をした。
2023年12月9日 食事会73~78歳になるとなると、なかなか会えない。
今回の食事会は、武蔵境のロイヤルホストだった。コロナと体調の関係で、6年と10ヵ月ぶりになった。午前11時30分にレストランで待合せ、そして、午後1時30分頃までゆっくりと会って食事をした。三人共、軽食だ。やっぱりこの歳、話題は仕事でなく、病気の悩みというか、自慢というか、何とも言えない話題。次回はいつになるだろうか?
【ひとり旅Ⅳ】 最後のリスボン見学 [60歳からのひとり旅]
【ひとり旅Ⅳ】最後のリスボン
今日は7日、最後のリスボン見学。明日はイタリアのローマ経由、2泊して成田に帰る。
今日一日の観光内容は盛り沢山だ。建築見学とサン・ジョルジェ城周辺の見学とパステル・デ・ナタ(エッグタルト)の2店舗の味比較そして、サンタ・ジェスタのエレベーターと街を横断する28番の電車に再度乗ることだ。
1)午前中は、1998年のリスボン万博等の現代建築見学。
2)午後はサン・ジョルジョ城とアルファマ地区の見学。
小さな街なので路面電車と歩きの観光を続けた。
建築見学
1)現代建築の見学が中心になった。
(1995年に着工され、リスボン国際博覧会開催直前の1998年3月29日に開通した。ヴァスコ・ダ・ガマ橋の全長は17.2kmあり、2018 年に長さ約 18 km のクリミア大橋が完成するまでヨーロッパで最も長い橋として知られていた。)
◆
エヴォラに行く途中、テージョ川に架かる橋、ヴァスコ・ダ・ガマ橋 (Ponte Vasco da Gama) を見てからだ。2月7日、朝から雨、朝9時頃だろうか、雨が止んでからスケッチを始めた。
空に浮いているケーブルカーを見てびっくり、先にある橋の美しさにもびっくり。どうしてこんなに美しいのだろう。ポルトのエッフェルの設計したドナ・マリア・ピア1877年のように美しい。
少しくもり空だが、左に虹がかかってきた。
虹がかかった。誕生日を祝ってくれているようだ。
シザの建築を捜し歩いた。諦めかけた時に見つけた。
1998年リスボン万博 ポルトガル館 設計 アルヴァロ・シザ
(Álvaro Joaquim de Melo Siza Vieira、1933年6月25日 - )
ポルトガル随一の国際的建築家で、ポルトガル建築界を代表する存在である。北部の大都市、ポルトを拠点としている。授。1992年にはプリツカー賞を受賞、翌年に槇文彦が受賞している。
82m×55mの大空間をコンクリート厚さ200㎜、ワイヤー100φ@450で組み、布のように見せ、この空間を覆う様はすばらしい。シェル構造の美しさだろうか?万博後は、イベント開催に使用されているが、あまり使われていないように思う。その空間を構成するための両サイドのコンクリート壁と後方の建物が寂しく感じる。
その空間を構成するための両サイドのコンクリート壁と後方の建物が寂しく感じる。
確かに美しい、コンクリートの進化した表現だ。
テント地でも別の表現が出来たのではと思ったりした。
「パウラ・レゴ 美術館」(2009年完成) 設計/エドゥアルド・ソウト・デ・モウラ
(Eduardo Elísio Machado Souto de Moura、1952年7月25日 - )ポルト市
ポルト大学芸術学部彫刻を学んだが、途中で建築に転向し、1980年に学位を取得。
1974年から1979年までポルトの建築家アルヴァロ・シザのもとで働く。
赤いコンクリートの塊と二本の三角形、実際見て、あまり抵抗感が無く楽しく見ることが出来た。広い敷地に建つ環境がこういった形を許すのだろう。青い空、周辺には高い建物はない。女性画家、版画家のパウラ・レゴ(1935~2022年、享年87才)の作品に似合ったデザインであろう。
パウラ・レゴの作品
レゴの初期作品は型にはまらないもの 独裁者を怪物や動物にして描くこともある
ゲートはアルヴァロ・シザの作品そのままという感じ
外構の芝生に咲いてたキノコ?緑の芝生にあるが全く気にならない。この建築をイメージした。
オリエンテ駅 設計 サンティアゴ・カラトラヴァ設計 サンティアゴ・カラトラーバまたはサンティアゴ・カラトラーヴァ(Santiago Calatrava Valls 1951年7月28日-)はスペイン出身の構造家・建築家である。
構造家がデザインするとこうなるのかと思った。別にここになくったって、良いんだと思った。
トラス、胴縁に相当するフレーム材が美しくない。無機質な空間はリスボンに似合わないなー。
でも、好きな人は好きなんだろうなー。
【ひとり旅Ⅳ】 オビドス [60歳からのひとり旅]
【ひとり旅Ⅳ】オビドス
正面に見える北端の高いのが、今日の宿泊先、ポサーダ・ド・カステロ
ここで、私の誕生日を祝うためのケーキを準備してもらった。
オビドスはリスボンの北95km、リスボンからバスで1時間10分。広さはイタリアのピエンツァのような小さな美しい街、完全に城壁で囲まれた500m×150mぐらいの広さ。人口は800人ほど。西から東になだらかな山の傾斜地に築かれている。「谷間の真珠」と呼ばれる絵のような街だ。
オビドスに到着したのは、30分程度遅れて、午後5時頃になった。バス通りは、城壁沿いに走る道路。バス停はゲートの近くにがある。まずは、南端にある二重の美しいゲートを通り抜け、南北にまっすぐ走る街路に出る。街路幅は4m程、距離は380m程先に城を改装したポサーダ・ド・カステロがある。
オビドスの正門
敵から城を守るために二重になっている
主要街路は、道幅4m程、車を交わすのが大変だ。
街を二分し、南北に細長くのび、等高線に沿うように
街路はポサード・カステロに向かってゆっくり上がって行く。
主要街路
狭い街路のほぼ中央で、急に開けて東側にパノラマが見える。
このテラスから下を見ると広場がある。
下がったところに広場がある。そして並行して走る狭い街路が垣間見られる。
正面が宿泊先のポサーダ・ド・カステロにチェックインをした。
17~18㎡の広さ、突き出たコーナーもある。
天井高3.5m
シーズンオフで朝食付き一泊135ユーロ、案内された部屋には
ホテルからのお祝いの誕生日のケーキ。オブリガード
13世紀の城を改装した室内。
明日のスケッチの場所を考えながら散策した。ハムとチーズとパンを買って夕食にした。
お城から見る景観は素晴らしかった。
翌日の朝食を10時にお願いし、チェックアウト当日、早く起き、朝7時頃から散策
この階段を上がって行くと私の部屋がある。
散策中に、猫たちの朝会に遭遇した。
朝食のため10時前に戻ったら、雨が降り出した。雨に合わなくて良かった。
サロン、食堂と落着いたきれいな部屋だ。
食堂とサロンの雰囲気は良いが狭い
朝食後、ポサーダの大きな傘を借りて散策した。オビドスで、ポルトガルのお土産を買うことにした。小さな街だから、傘をさしてお店を一軒一軒見て回り、買い物をして、軒下でスケッチという観光には特に問題なかった。晴れていればさらには良いが…。
【ひとり旅Ⅳ】 コインブラとナザレ [60歳からのひとり旅]
【ひとり旅Ⅳ】コインブラとナザレ
今日は2月4日、コインブラに泊まる。翌日にはナザレを観光して、オビドスのポザールに泊まる。そして、6日にリスボンに戻る。旅行ケースを6日から宿泊するホテルに預け、持物はリュックサックだけ。『コインブラの見学』
コインブラは、モンデゴ川を挟み下の街区と上の街区がある、人口は10万人程度だが、政治のリスボン、商業のポルトに次ぐ、教育・学業の街だ。現在もパリ、ボローニャー、サラマンカに並ぶ古い大学、1308年設立した大学がある。一方、商店街のある下の街区には、金平糖(1569年にポルトガルの宣教師が 織田信長に、贈った)の店(日本の観光客は行列して買ってい)、男子学生が「ファド」を歌う店もあり、愉しい街。リスボンからコインブラまで高速バスで行く。7時30分発に乗るため、6時30分にホテルを出た。前の電車が事故で、8時30分発になり、コインブラには、12時前高速バスターミナルに着いた。ターミナルは郊外にあるため、下の街区までは市内バスで行く。そして、上の街区にある民宿までは歩いて30分近くかかった。
ここが下の街のバス停、川を渡り上の街の方向に行く
郊外の街(下の街)の雰囲気、街路樹はオレンジの樹。
今回利用する民宿は、27ユーロ、共同シャワーの安い宿、上の街区の一番高いところにある。オレンジの街路樹を見ながら民宿に向かう途中で果物屋があった。お土産になると思い、イチゴとオレンジを買った。
果物は安い
何度も民宿の場所を尋ねながら、急な坂を上り、息を切らせながら、やっと到着。民宿のおばさんには、タクシーで来ればいいのにと言われたが、倹約だ。
このゲートから登って行く。スーツケースが無いから良いが・・・
まだ先、この階段を上る。途中オーダーメイドの帽子屋があった。
この階段はきつい、今73歳なら登れないだろう。若くてよかった。
1泊27ユーロ、共同シャワーの部屋です。学生の頃利用したホテルは、こんな程度。
宿の女主人から観光ルートを教えてもらい<観光スタート。コインブラは本当に大学の街だ。美術館の中にきれいなセルフサービスのレストランでスケッチをしながら、ゆっくり食事をした。
途中で雨が降り出した。
セルフサービス定食7ユーロ、ジュースを飲んだので8ユーロだった
コインブラ旧大学のスケッチ
前方に見えるコインブラ旧大学
食後雨の中を、旧大学に行く。蔵書30万冊の図書室を見学した。
校舎の中
ロマネスク風の中庭
民宿に戻る途中、1530年に建てられた教会を利用したカフェー“サンタ・クルス”で午後7時頃までお茶をした。
そして、登坂の途中で見つけたレストランで食事11ユーロぐらいだった。
盛り付けは今一だけれど美味しかった。
食後、迷いながら民宿に辿り着く。途中、本格的な雨に見舞われ、ズボン、靴とビッショリ、夜中にヒーターにあてたり、ドライヤー、マットの下とかに干しながらやっと乾いた。翌日、小雨の中、7時頃から8時30分まで市内観光をした。
まだ暗い、面白そうな広場を見つけた。
残念ながらスケッチの時間がなく、一度ホテルに戻り、朝食を済ませた。そして、長い坂道を歩いてバス停に向かった。
朝食のサロン
民宿のベランダから見るコインブラの街、ここが如何に高いか分かる
9時発のナザレ方向行きのバスに乗るために急いでバスターミナルまで行く。バスの発車が遅れた。待っている間、スコットランドの学生二人ずれに会う。雨に慣れ、変わった服装をしていたのでスケッチをした。見せたら上手いと言われ、スケッチを写真に撮りたいと言われた。バスの中で、英会話の勉強のつもりで話しかけてイチゴを上げた。
バスの切符売り窓口
スコットランドの2人の学生
【ひとり旅Ⅳ】 シントラとエヴォラの旅 [60歳からのひとり旅]
【ひとり旅Ⅳ】シントラとエヴォラ
旅の2日目の日曜日晴れ,日帰りの旅。手持ちは54ユーロ、今日はこれで大丈夫だと思った。
まだ外は暗いが朝7時にホテルをスタート。目的のリスボンの広場を1時間ばかり実測し、シントラ行き電車が出るロシオ駅に行った。1階には広いスタバ(正面右側の3つの出入口分)があった。
ポルトガルのコーヒー1杯が0.6ユーロ、スタバは2ユーロ高いな~と思いながら、長いエスカレーターで2階にある駅、改札口に行くが、窓口は締まっていた。自動切符販売機はあるが、使い方が分からない。近くのおばさんと駅員らしき人に尋ねてやっと往復切符を買った。そして、発車時刻まで時間があるので駅中のスタンドでコーヒーとパンを食べた。
「シントラ見学」
シントラは、首都リスボンの西に位置し大西洋が望める山間の街。この地はポルトガルの王家に愛された避暑地「シリーズ世界遺産100」では、シントラに建てられた二つの宮殿(ぺーナ宮殿と王宮)が紹介されている。ひとつは14世紀に築かれた王宮、16世紀ポルトガルの黄金期の王マヌエル1世により豪華に改築。マヌエル1世はヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路の決断したり、多くの事が決断された重要な場所。ぺーナ宮殿は、王宮建設から300年後、大航海時代は既に去りポルトガル王家の輝きも失われた19世紀に建てられた。国王フェルナンド2世は、おとぎ話に出てくるような宮殿つくりに生涯を捧げた。王の権力は1908年頃から、王国としてのポルトガルは終焉を迎えた。(NHKシリーズ世界遺産100より)
シントラ行きの電車で、アムスで知り合った2人の学生にあった。彼らとリスボンの情報交換をした。そして、40分ほどでシントラに着く。まずぺーナ宮殿方向のバスに乗ることにした。バス停で上海で働く日本人夫婦と知り会い、意気投合し楽しかった。また、スペインのマドリードの夫婦とも知り会ったり、それなりに観光ムードのこころよさだ。
『ぺーナ宮殿』
『ぺーナ宮殿』は岩盤の上に建つ
前に歩くのがマドリード生まれの50歳代のスペイン人夫婦
おとぎの国のお城のようだが、武骨さが好きでない、ドイツ様式だろうか?
正面にゲートが見える
急に観光客で賑わいはじめた
色んな建築様式が乱れ、色使いも美しさは半減
ペーナ宮殿の食堂
ぺーナ宮殿サロン
サロンの入口の柱
ドイツ的、繊細さの無いぺーナ宮殿中庭
周辺は山並みは美しい
□
ぺナ宮殿から王宮までバスで行く。
『王宮』
2つの塔の形が変?台所の換気塔
離宮のサロン
台所に行く通路
16世紀に改築された厨房部分の2棟の円錐の形には、興味が魅かれた。
◆
手持ちユーロの話になるが、王宮見学後5ユーロしかなく、王宮から歩いてシントラの駅に行った。往復切符なのでリスボンまでは帰れた。今日も夕食なしだ。お金の無いのは慣れているが、海外で手持ち金が無いのは結構さびしい。午後2時頃リスボンに戻る。旅行は残り、7~8日間、明日は6万円を両替することにした。
【ひとり旅Ⅳ ポルトガルとイタリア】 [60歳からのひとり旅]
【ひとり旅Ⅳ】 ポルトガル イタリア
憧れのポルトガルを見てきました(2013年は仕事に追われて)
今回の旅行先は、ラジオで“大橋巨泉がポルトガルのいわしがおいしかった”ということで、行先を決めた。【60歳からのひとり旅Ⅳ】 2014年1月31日から2月11日
航空券 140,000円
ホテル料金 120,000円
その他 交通費・食事など 8~9万円 合計 35万円
1ユーロ145円(昨年は100円)、宿泊費用を倹約できたが、60歳過ぎなのでお許しを
旅行の注意/手荷物は少なくして、機内持込みの33ℓ旅行鞄とリュックサック。雨期のために、スリッパ、ジャケット、靴余分に1足、合羽と傘。カバンの中を占めるのは10日分の下着だ。そして、常備品は日本製キャンディは対話には欠かせない。
<航空券はHISで手配>
KLMオランダ航空を利用した。アムス経由でポルトガル/リスボンからイタリア/ローマ経由で帰国。ローマ経由でなくリスボンから帰国すれば1万円安い。
<旅行内容>
1月31日 成田からアムス経由でリスボン
2月1日~4日 リスボン、ホテルは ブラウン・ダウンタウンホテルに4泊。
その間に近場のカスカイス、シントラ、エヴォラを観光
4日~5日 コインブラ、ホテルはゲストハウスカーサ ポンバルに宿泊。
途中、ナザレに立ち寄る
https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2014-02-14
5日~6日 オビダス ホテルはポザーダ・ド・カステッロに宿泊。BDを祝う。
https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2014-02-19
6日~8日 リスボン インタナショナル・デザインホテルに2泊
https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2014-02-14-2
8日~10日 ローマ クイリナーレホテルに2泊
香港、オーストラリア(パースとシドニー)、スペインそしてポルトガル
<目的>
昨年から始めた彩色するスケッチと新しい広場を見付けること。ファドを聞くのも、ポルトガル料理を食べるのも興味がないが、露天でイワシを食べることはある。今回はスケッチブックは大小2冊と測量レーザー(広場測量)そして、地球の歩き方と青目海著の“リスボン 坂と花の路地を抜けて”)を持参し調査・観察すること。【ひとり旅Ⅳポルトガル旅行】 2014年1月31日~2月8日
1月31日に自宅を午前6時20分頃に出る。成田には予定より早く着いた。
山手線、朝が早いので寝ている人が多い
KLMオランダ航空で成田を11時30分に搭乗予定、1時間遅れて出発。機内で、隣にHISのスペイン旅行10日間に参加した女性。彼女たちの鞄は70ℓの大きさ、両替方法と行先のホテルに荷物を預けて、近場の観光をするテクニックなど話をして、彼女たちから“すごーい”と言われながら悪い気はしなかった。そして、アムスに1時間遅れ、16時15分に到着。リスボン行きの飛行機は4時間待ちで21時発になった。その代償として50ユーロの飛行のクーポン券と食事代などの10ユーロのクーポン券をもらった。その券でスタバのコーヒーを飲む。搭乗時間になり、飛行機に乗った。
アムスで搭乗時間を待っている学生、中国人など
リスボンに23時頃に到着。明日土曜日、日曜日、銀行(両替は銀行と決めている)は休み。空港で差当り1万円両替(58ユーロ)。バスもなく、タクシーに乗った。通常、リスボンの中央のホテルまで15ユーロ程度。35ユーロだった。結構騙されている人が多い。チェックインは、2月1日1時を過ぎ。
2月1日 今日は気ままに歩く日
「ポルトガルの歴史を少し」
ポルトガル人は我が国を訪れた最初の国。ヨーロッパの中の国としてでなく、世界の経済大国として栄えた。
ポルトガルから伝わった言葉、ボタン、パン、じょうろ、金平糖など、今も日本で使われている。それだけにポルトガルは、日本にとっては「遠くて、近い国」
この栄華は、半世紀だけの短い発展であったが、その後はブラジルに植民地帝国を築きと西アフリカの奴隷・食糧‥ブラジルが1821年に独立後も1974年、産業の活路を広げながら 1986年欧州共同体に加盟し、ヨーロッパの一員として≪ポルトガルの歴史 金七紀男著≫
◆
ポルトガルの国土面積、92210km2(人口1050万人)は、イベリア半島の1/6の面積。日本の北海道よりは広く、ギリシャより小さい。農村面積は国土の7割を占める。北部の山岳地帯、中部の台地地帯、南部の平野地帯からなる。中部以南は乾燥しており、高温だから農業に適していないそうだ。
2014年に訪れた、中部の首都のリスボン。街から1時間も走らないうちに山が見えてくる。岩肌の山、コルクの樹、羊、牛の放牧地が広がる。ほとんどが山地で平野がない。
さあ見学だ。時計は朝6時を回っていた。外は雨、まだ暗いが起きた。青目海さんの本を持ってテージョ川を見に行くことにした。フロントで時計を見たら6時(アムスとの時差が1時間)。傘を差して、川に向かってひたすら歩く。開いているお店は、カフェーが一軒、コーヒーを飲んでいた警察官に、現在の場所(シアード地区)と川の方向を尋ねた。そして、ミルク入りのコーヒーとクロワッサンを注文。お金が0.1ユーロ足らなかったがサービスしてくれた。ミルクをポルトガル語でレイケと言うことを学んだ。ポルトガル語は、イタリア語より田舎言葉ようなアクセントと思った。みんな親切だ。そして、テージョ川に向かう。先ほどのお廻りさんが巡回していた。結構、街は警備がされ治安が良い。8時前、川沿いに市場(リベイラ市場)があるのを見つけた。まだ準備中だったが、オレンジと大きなイチゴを1/2㌔ずつ買った。市場を見ると気持ちは浮き浮きしてくる。
リスボンで最も美しい駅、カイス・ド・ソドレ駅に出る。
【ひとり旅Ⅲ】スペイン イタリア [60歳からのひとり旅]
【ひとり旅Ⅲ】 スペイン イタリア
バルセローナとフィレンツェ・シエナ・サンジミニャーノの旅
9階建ての中古の中田事務所ビルの9階と8階をスケルトンにし、住まいとして改装工事の設計・監理の仕事が完了と同時に旅をした。
『60歳からのひとり旅Ⅲ』 2012.12月3日~12月15日
今までのひとり旅の中で一番長く、費用の出費をした旅になった。
航空券 138,550円
ホテル料金 88,500円
その他 交通費・食事など 80,000円 合計 31万円
<航空券はHISで手配>
、行きはエアーフランス航空、帰りはアリタリア航空を選んだ。但し、バルセロナから直行便フィレンツェまでは、初めて自分でイベリア航空を予約, 13,500円(曜日によって価格は違う)だったホテル探しはAgodaとVenereとHotels・comを利用。同じホテルでも価格は違う。
<旅行内容>
12月3日バルセロナ 成田からパリ経由でバルセロナ着午後9時 6泊 ホテル
3~5日ヌーベルホテル(三ツ星)カタルーニア広場に近く交通便が良い
5~9日コロンホテル (四つ星)観光便利・サービスとお薦めホテル
12月9日 バルセロナからフィレンツェ フィレンツェ4泊 シエナに1泊ホテル
9~11日エルミターゼホテル(三ツ星)余りお勧めできないホテル
11~12日アテホテル((四つ星)交通の便は悪い、景観が良いお薦め
12~14日ブレターニャ(三ツ星)交通の便は悪い、部屋は悪い
12月14日 フィレンツェ発 ローマ経由で15日に成田午前9時45分、帰宅12時前。
<目的>
1)バルセロナではガウディの建築見学とチョコラータを飲み、チェロスを食べること。 そしてカタルーニア音楽堂でフラメンコ見学、レイ広場の実測見学。
2)一番好きな街、花の都フィレンツェに行くこととシエナのカンポ広場見学。
<感想>
ガウディの作品はディテールが多くて疲れるが楽しかった。サクラダファミリアの内部は見学しなかった。ピカソ美術館は非常に良かった。ミロ美術館は遠かったけど、内容は期待外れだった。
フィレンツェ・シエナ・サンジミニャーノの30年前と変わらぬ景観と行きつけのバーでのひと時の会話は楽しかった。サン・ジミニャーノでは、城壁沿いからの新しい景観を見つけて少し興奮気味にスケッチ(塔に上ることを忘れた)を愉しんだ。
スペイン、イタリアと天候に恵まれて、朝7時前後から活動し、午後5時頃まで、スケッチと実測の日々だった。
『スペイン旅行』
38年前のバルセロナの思い出
もはや遠い思い出だ。私がこの地を最初に訪れたのは、1974年、あれから38年になる。
当時、イタリアの物価が日本の半分、スペインはイタリアの1/2。非常にホテルの宿泊費と食費と安かったことを覚えている。コミュニケーションというと、私はイタリア語で話し、スペインの人はスペイン語、でもなんとなく通じていたことも、楽しい思い出だ。当時も、ガウディの建築見学と広場探しで訪れた。バルセロナ、マドリード、セゴビア、トレド、コルドバと見学した。今でも覚えているのが、バルセロナの街頭で食べた“チョコラータとチェロスの味”と“コルドバの女の娘との出会い”は懐かしい思い出だ。
□
【ひとり旅Ⅲ バルセロナ】<2012年12月3日~9日
海外の旅は、言葉の不自由さはあるがそれなりに楽しい。
バルセロナは小さな街、何度も同じ人と顔を合わせ、その度ごとに「ア、オーラ」と挨拶
バルセロナの全景
旅行の愉しみ方
まず地図を買うこと。(バルセローナでは、地名はカタルーニア語、ガイドブックはスペイン語で書かれている)。地図を見ながら、地元の人に尋ねながら美味しいチョコラータの店とチュロスの店(日本のマスコミが取材に来た)を見つけた。
安い食堂を探すこと。ちょっとまともな食事だと2,000円前後を覚悟しなければならない。1日5,000円に抑えたので、昼食(午後2時頃から)だけをメインにした。
色んな交乗り物にのることを経験すること。バルセローナの市内、ガウディのグエル公園(1回目は地下鉄と徒歩、2回目はバスと徒歩)だった。バスで行くことをお薦め。
美味しいチョコラータのお店
色んな楽しいことがある。カタルーニア音楽堂でのオペラ・フラメンコの見学。そして、レイ広場でスケッチをしていたら、観光客がそばに寄ってきた。スケッチしている姿を、写真を撮らせてほしいと言われたときはびっくり。大好きな街バルセローナ、すべてが楽しい思い出。
ビスべ・イルリータ通、スケッチで一番好きな場所
レイ広場
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【ひとり旅Ⅰ】オーストラリア [60歳からのひとり旅]
【ひとり旅Ⅰ】オーストラリア
2010年2月に60歳になったが、相変わらず経済的にも余裕のない。年月だけは一日一日と過ぎてゆく。6月に鉄骨造3階建ての改修と木造住宅の設計の仕事が始まった。金銭と時のバランスの悪さを考えながら、この先、どのように生きていくかを考えた。そこで、年に一度の誕生日を海外で祝う《60歳からのひとり旅》をはじめた。
梶井基次郎の言葉“ほどよい怠けは生活に風味をそえる”
《60歳からのひとり旅》は、友人の娘さんが家族で住んでいる、シドニーに行くことに決めた。日本との時差が1時間しかない、東京を夜出て翌日の朝に着くという魅力。パースは世界でいちばん住みやすい街として、ガイドブックに紹介されている。
『60歳からのひとり旅Ⅰ』
2011年2月2日~2月9日 8日間の旅
航空券(シドニーとパースの往復) 150,000円
宿泊費 56,000円
その他 食事等 40,000円 合計250,000円
貴方の趣味と聞かれ、年一度の海外旅行が唯一の趣味と答えることにした。
<航空券・ホテル予約はHISで手配>
まずは、12月末、HISで旅券(15万円)を買う。(1月に買った方が安かった。)ホテルはインターネットで、agodaとHISを利用して探した。パースのホテルはagodaから探した。そして、シドニーのホテル探しは(数年前に、HISの紹介で泊まったホテルはひどかった)、HISのセール中との言葉に魅かれて、シドニー3泊の中の2泊をHIS紹介のホテル、1泊9,000円。BDの1日はagodaから選択、一泊18,000円(The Russell Hotel)は良かった。
飛行機は少し高いが、仕事の関係で直行便のカンタス航空を選択。操縦は上手い、案内からサービス、食事の内容も満足。シートのサイズ(幅495mm、空きスペース250mmを含めて長さ800mm)は広いかどうかはわからないが、シートの頭部分は、二重になっていて頭を挟み込み、更に目隠しにもなる構造になっていた。
<旅行内容>
2月2日~3日 2日、事務所から成田に向かう。午後10時30分出発、3日午前6時
2月3日~6日 パーツ
2月6日~9日 シドニー パーツからシドニーに行き、BDを祝い、9日時間通り、成田に午前6時到着し、直接事務所に行き仕事をした。
<目的>
61歳の誕生日は、私にとって高級ホテルを予約し、私の好きなデンマークの建築家ヨーン・ウツソン(Jorn Utzon (Jørn Utzon), 1918年~ 2008年享年90歳)の設計したオペラハウスを見ながら誕生日を迎えること。
https://musashinosekkei3.blog.ss-blog.jp/2013-02-25-8
【ひとり旅Ⅱ】香港 [60歳からのひとり旅]
【ひとり旅Ⅱ】 香港
今回の旅は、営業を兼ねた3泊4日の短期間だった。
香港旅行は今回が2回目。初回は1982年(西武ライオンズ、初回優勝した年)。香港がイギリスから中国に返還されたのが、1997年7月だから返還前になる。マカオは、ポルトガルの植民地から中国に返還されたのが1999年。歴史は動いているのを感じる。日本は島国で良かった。『60歳からのひとり旅Ⅱ』
2011.9月26日~9月29日 3泊4日間の旅
航空券 48,000円
宿泊費 37,500円
その他 食事など 30,000円 合計12万円
<航空券はHISで手配>
HIS新宿店で航空券 航空会社 デルタを手配し、ホテルはネットで予約した。
<旅行内容>
9月26日 成田を午後6時50分発 香港直行便、午後10時30分着
9月27日 営業先のIMCに行く。
9月28日 香港市内を見学
9月29日 香港を午前8時25分に
<目的>
施主に御挨拶すること、 広場探し、海に浮かぶレストラン〈珍寶海鮮舫〉を見学
香港の広さは東京23区の2倍程度、1,1041K㎡
香港の人口897万人、東京23区の人口700万人
香港の飛行場には26日午後22時30分着、時間通りだ。飛行場での通貨レートは安い、必要分の5,000円だけ両替(通貨レート0.945、472HK$)した。残りは、銀行で両替(通貨レート1.0)。
飛行場から香港駅までエクスプレス、そして天后まで地下鉄(MTR)を利用してホテルに行く計画、3日間自由に乗り放題のエアポート・エクスプレスカード220$とオクトパス・カード150$を購入(エクスプレスカードを先に買うと、一枚で処理)した。そして、無事当日、24時10分、天后にあるホテルにチェックインした。
繁華街のホテルの方が良かった。もう少し早くチェックインできただろうと思った。
部屋に入り、室内の実測をし、シャワーを浴びてベットインしたのが、朝2時近かった。
【ひとり旅Ⅱ】香港2 [60歳からのひとり旅]
【ひとり旅Ⅱ】香港
香港をひたすら歩き、地下鉄(MTR)とトラムとバスを利用して見学。食事は安く、おいしかった。九龍半島の油麻地、佐敦、尖沙咀は、日本の新宿、池袋、池袋の繁華街だろうか。世界的な商業の中心地は香港島の上環、中環にある。天后あたりまで来ると、繁華街はさびれている、静かな地域だ。私は、香港島の観光が好きだ。九龍半島は疲れる。
香港の観光は「食べること」
年齢的にも肉は避けて、魚と野菜と麺類とお粥を食べた。20~30HK$あれば食事ができる。朝8時ごろから飲茶など店は繁盛している。ケンタキーフライドチキン、マクドナルドなど外資系の店もたくさんある。香港の人達は本当に食べることが好きだ。
美味しいと思う店選びはかならず、お客が多い店を選ぶ。店内で香港の人たちを見ていると、私のように一品だけを選ぶことは絶対にしない。例えば、お粥と一緒に焼きそばのようなものと一緒に食べる。そして、お皿も綺麗に残さず食べる。決して上海で見かけたお客さんが、床にぺ、ぺ、と吐き出すことはしない。かっこよい食べ方ではないが、肘をつき楽しく会話をしながら食事をする。喧嘩でもしてるのではないかと思うほど大きな声。私のように一人の客はいないから、結構私は目たち、みんなが見ているような感じがした。
麺類の屋台、2人用長椅子に腰かけて食べていたら、
知らない人が何も言わず隣に来て食べた。日本と違うなーと思った。
「建築材料」
建築工事のための足場工事の足場の材料は竹を使っていた。
「タワーマンション」だらけ
どこに行っても高層マンションが建っている。香港島の東から西端まで行ったが、やはり高層マンション。彼らに言わせると、土地がないからという(私のお客様の話)。確かにそうだ。平地がなく、海際をトラム、MTRが走っている。後方は山。山の斜面を利用して墓がある。
マンションの建設には中国の建設会社が多いと思う。日本企業は見当たらなかった。どんな建物も、竹で足場を組み、岩盤の上に建つので杭がない。自然の力は強いから、いつそのまま倒れるやらと少し心配になる。価格は3000,4000万円以上はする。億単位のものもある。価格は日本とあまり変わらないのでは思った。
建築法規はあるのだろうかと思った。
正面に見える斜面、太陽もさんさんと照るところにあるのは、墓地です。
こうした斜面なら、日本なら住宅地として造成するだろうと思った。
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「トラムが走る」
トラムもバスもをよく利用した。トラムはほとんどが2階。必ず2階に上がり、最前列に座り見学をした。朝、夕方の通勤時は日本の山の手線、同様にすごいラッシュ。100m間隔ぐらいに停留所があるかと思うほど多い。それだけに安心して乗ることができる。バスも停まる箇所は多いが、行先を確認して乗る方が良いだろう。観光には地図は手放せない。
車両間距離は30㎝ぐらいか、怖くて手を出して距離を測ることができなかった。
高層マンションの間をかなりのスピードで走る。
すれ違う時は本当に怖いぐらいのスピードだ。
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